事故当日と入院生活については、簡単にではありますが1つ前の記事でお話ししました。この記事では、退院してからの その後についてお話ししていきたいと思います。
退院後のカナダ生活
アルバーター大学からドクターヘリにて Stanton Territorial Hospitalに転院後、療養とリハビリを中心に2週間ほど入院して退院となりました。退院後は1週間に1度 通院して、1ヶ月後に通院もしなくて良くなり 主治医から日本に帰る飛行機に乗る許可ももらうことができました。
退院後は、当時お付き合いをしていたボーイフレンドの家で暮らすことになりました。もともと わたしが部屋を借りていた家のオーナーとは、意識が戻ってからも連絡を取っていて 本当は事故にあった日の1週間後にはカナダを発つ予定でいたので部屋の契約も終了になっていたのですが、そのまま部屋も残していてくれていました。わたしは もともと住んでいた家に帰りたい気持ちがあったのですが、彼がすごく心配して 一緒に暮らすことを強く訴えてくれていて 心配をかけてしまって申し訳ないなと思う気持ちも大きかったので そのまま彼の家で暮らさせてもらうことになりました。わたしは 鎖骨や右手がまだ骨折したままで 骨盤にもヒビが入っていたので、動きにも制限がああり 食事を作ったりすることすら出来ませんでしたが、彼はわたしの身の回りの世話を本当に甲斐甲斐しく助けてくれました。
滑車神経の損傷による複視も改善は見られず、イエローナイフで1番人気の眼科クリニックを受診することになりました。Stanton Territorial Hospitalから紹介状を書いてもらったのですが、人気のために予約は2ヶ月先。ところが、彼の姉がそのクリニックで働いていて 特別に対応してもらうことができ、翌日には受診できることになりました。有難いかぎりです。受診した結果、今できる治療は何もなく 半年後に状況が変わっていなければ手術適応となる可能性が高く、手術をしても複視が完全になくなるかは分からないとのこと。眼球を動かすことで自然回復することも奇跡的にあるとのことで、しっかり目を動かすように心がけました。
その他の、歩行などのリハビリもStanton Territorial Hospitalと連携しているリハビリ施設に週2回 通って行いました。複視によって、両目を開けた状態ではまっすぐ歩くことができず 外を出歩くことに億劫になっていた わたしを 友人たちは外に連れ出してくれてプールに出かけたり、ウォーキングに出かけたり、ホームパーティに招待してくれたりしました。あの時、家族を含めて周りの人たちが わたしにポジティブに働きかけ続けてくれたことで、わたしもネガティブになることなく前向きな気持ちで過ごせたと本当に思います。事故後から 現状に失望したり くよくよせずにリハビリを続けられたことも回復できた大きな要因で、支えてくれた人たちのおかげだと 今でも頭があがりません。
退院して1ヶ月半が過ぎて、病院への通院もリハビリも目処がついたところで、日本に1度帰ることを決めました。当初は、しばらくしたら またカナダに戻ってくる予定でいたので まだ鎖骨が骨折していて大きい荷物も運べず 荷物を極力抑えて 日本へのフライトを予約しました。骨折もしていて、複視も変わらず続いていたので 1人で帰ることを不安に思っていたら ちょうど旅友達がメキシコからカナダ経由で日本に帰るから 一緒に帰ろうと声をかけてくれて 日本までのフライトも友人と一緒に安心して帰ることができました。
日本での生活
日本に帰った後は、実家でゆっくりさせてもらい、毎日 散歩を日課にして 隠居生活みたいな のんびりとした暮らしをしていました。わたしの地元は、田舎なので車がないと どこにも出かけれないような交通の便の悪い場所だったので 友人が車で会いに来てくれて、実家に泊まってもらったり、どこかへ お出かけに連れ出してもらったりするのも楽しみでした。
日本でも、事故後の精査として整形外科、脳神経外科、眼科をそれぞれ受診しました。整形外科では、鎖骨などギプスをつけることができなかった箇所も ほぼくっついているので このまま無理をせずに過ごせば完治しますと。脳神経外科では、MRIによる検査と高次脳機能障害の可能性を疑って簡単なテストと家族への医師からの問診を行なって、後遺症は奇跡的に残らず 今後は脳を出血している分 人よりも てんかん発作等を発症するリスクが高くなるとの診断で、脳に関しての定期的な受診は必要ないとのこと。
眼科に関しては、いくつか眼科を受診しましたが現在残っている複視に対してできることはなく、手術も難しいとのことでした。それでも 諦めずに手術をしてくれるかもしれない病院を探して、兵庫県の兵庫医科大学の木村先生を知りました。そこで、受診していた眼科に紹介状を書いてもらって1ヶ月後に初めて兵庫医科大学を受診しました。現在は手術適応ではないものの、様子を見て 半年を目処に手術をしてもらえることになりました。カナダの医師も話してくれたように 時間の経過とともに複視が消失することもあり、身体の自然治癒力にて消失しないにしても症状が改善することもあり変動的なため、時間を空けて症状が安定してから手術をしましょうとのことで、半年後に手術の予約を取ってくれました。
眼の手術を待つ6ヶ月の間に、世はコロナ禍に突入。眼の手術を日本で終えたらカナダに戻ることを考えていましたが、日本から海外に渡航するのは困難な状況になってしまい カナダに戻る目処もたたない状況となりました。カナダで待ってくれている彼とは 話し合いの末にお別れを選択することとなり、わたしは日本で暮らすことに。
複視以外の後遺症もなく身体機能も元に戻ってきていたので いつまでも実家のお世話になる訳にはいかないと思い 就活をして、実家から少し離れた愛知県で看護師として復職することが決まりました。わたしの 地元 三重県では中途半端な時期にちょうどいい職業案件があまりなかったので、三重県からも遠くなく 妹も住んでいる愛知県なら事故のことで散々心配をかけた家族の心配も大きくはならないのではと思い まずは愛知県での就職を決めました。といっても、派遣の看護師として10ヶ月間の期限つき短期雇用で勤務することとなり その間に今後のことをゆっくり決めることにしました。就職先の病院には、事故のこと、後遺症として複視が残っており 今後は手術予定であることも伝えた上で内定をいただきました。
愛知県で働き始めて3ヶ月ほどで、もともと予定していた眼の手術の日がやってきました。就職先には、もともと手術の日程を伝えており 1週間の長期休暇をいただきました。結果的に 1回目の手術は失敗し 手術後には以前よりも複視が悪化する状態になってしまいましたが、2日後に再手術を行い 正常に目が見えるようになり、手術は成功しました。手術後のリハビリも毎日行い 経過も良好で、今では ほぼ複視に戻ることなく過ごすことができています。たまに、疲労が溜まった時や長時間の運転を行った時に 複視に戻ってしまうことはあるのですが、しっかり休息をとることで また正常に見えるようになり、唯一残った後遺症もほぼ回復することができました。
まとめ
カナダでの入院生活や その後の後遺症の心配やリハビリ生活など たくさん大変だったこともありましたが 周りにも驚かれるほど ポジティブに過ごすことができ、あの時があったから今があると より今を大切に過ごすこともできるようになりました。それもこれも、支えてくれた家族や周りの人のおかげです。
事故しないに越したことはありませんでしたが、きっと自分にとって必要で意味がある出来事だったんだろうと今は振り返って思います。現に、あの事故が1つ大きな人生のターニングポイントとなり 今の人生に繋がっています。