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カナダで交通事故 1ヶ月意識不明の重体 医者からは奇跡と言われるほどに回復

 その日は突然にやってきました。事故にあった人は誰しも思うことかもしれませんが、まさか自分がにこんな事が起こるなんて思ってもいませんでした。でも、いつ何が起こってもおかしくないのが人生です。今回は わたしの身に起こったカナダでの事故とその後についてお話ししていきたいと思います。

事故当日

 事故にあった当日は、友人がボートを出してくれて湖に釣りをしに行く約束をしていました。朝8時ごろに家に迎えに来てくれることになっていて、7時ごろに起きて釣りに行く準備をしていたところで雨が降り始めました。友人から雨だから今日の釣りは中止にしようと連絡が入り、午後からランチすることに予定を変更しました。

 わたしは、前日にオーロラを撮りに出かけていて 眠りついたのが遅かったので、二度寝することにして 次に起きたのが9時でした。すると、友人から たくさん連絡が入っていて一時的な通り雨だったから やっぱり釣りに行くことにしようとのこと。すっかり二度寝してしまっていたので、友人達はもう湖に向かって出発していました。

 

 実は、この1週間後には長く住んだイエローナイフから旅立って 新たな旅に出かけることを決めていた わたしは、仕事も辞めて、アメリカ行きの飛行機も予約していました。寝過ごしてしまったのなら、無理にその日に釣りに行かなくてもよかったんですが、旅立つ前という事もあって イエローナイフの友人と釣りに出かける機会もこれが最後かもと思い、わたしも湖に向かうことに決めました。友人に連絡すると、船を出さずに湖で待っているから ゆっくりおいでとのこと。わたしは、自分の車を運転して20分ほど離れた湖を目指しました。

 意識不明から目覚めた後しばらくは、事故が起きた当日の記憶はありませんでした。1ヶ月・2ヶ月と時間が経つうちに その日のことを ゆっくりと思い出していきました。そして、わたしの記憶は 湖を目指して運転をしていた イエローナイフリバーの橋が見えたところで終わっています。このイエローナイフリバーを超えた後に、わたしの車はスリップを起こして 対向車線の大型トラックと衝突したそうです。

 後から聞いた話ですが、わたしが事故を起こした日は雪が降り始める前の9月でした。雪が降り始める前に州によって 夜間に除雪剤が巻かれた翌日で、除雪剤を巻いた日に雨が降ると路面が滑りやすくなってスリップ事故が起こりやすくなるんだそう。

 わたしが 衝突したトラックを運転していた方に大きな怪我はなく、トラック自体にも損傷は少なかったそうです。直接会って謝罪する機会はなかったのですが、車の保険会社を通して連絡をして 保険会社がトラックの運転手の方に対して補償対応を行ってくれました。次回以降の記事では海外保険とカナダの健康保険についてもお話ししようと思いますが、車の保険も本当に大切。車を購入して 車の保険に入らないという人も少ないかとは思いますが、しっかりといい保険に入っておくとさらに安心です。

 事故が起こった後の事は全く覚えていなくて、次に目が覚めたのは事故から およそ1ヶ月後 病室のベッドの上でした。事故の後、イエローナイフで唯一の総合病院である Stanton Territorial Hospital に救急車で運ばれたんだそうです。湖の辺りで わたしの到着を待ってくれていた友人は、なかなか到着をしないこと わたしと連絡がつかなくなったことを不思議に思っていました。湖に車で到着した地元の人が「大きな事故があって、この道が渋滞していた。」と話しているのを聞き、その事故の詳細について尋ねたところ 日本人が事故したらしいとのことで、もしかしたらと思った友人達は 現地に駆けつけてくれて 残されて大破した わたしの車を確認すると急いで病院まで来てくれました。

 

 緊急事態のため身内以外は面会できないという決まりがありましたが、友人はこの病院で看護師をしていて わたしの身内はカナダにはいないこと等を説明して、特別に友人達と面会することができました。この時 面会した記憶はなく、友人によれば 普段より少しハイテンションな状態ではあったものの会話は成り立っていたとのこと。面会を終えて、急変があった場合は知らせれるので 帰宅するようにと言われた友人たちは家に帰りました。そして、その数時間後に容態が急変したと病院から連絡があり再び病院に来てくれました。わたしは、意識がなくなり昏睡状態になっていたそうです。

 イエローナイフの病院では MRIやCTの医療機器が揃っておらず、ドクターヘリにてエドモントンにあるアルバーター大学病院に緊急搬送となりました。友人達は、わたしの日本の家族に この状況を伝えるために日本人を探し、わたしの携帯から家族へ連絡をしてくれ、家族はエドモントンの病院に向けて会いに来てくれることになりました。幸運なことに、前日に調べ物をしていて 携帯のロックを何度も開けるのが面倒になって 携帯のロックを解除したままにしていたので 誰でも携帯を開ける状態になっていました。ドクターヘリには友人が同伴してくれ、家族が来るまでの間 ずっと付き添ってくれていたそうです。本当に周りの人の援助に感謝しかありません。

 ちなみに、大使館にも在留届けを出していたので 病院から大使館に連絡がいって、友人達の連絡から1日遅れで 大使館からも連絡があったそうです。

病院生活

 目が覚めるまでの1ヶ月の間は、記憶はないので 家族や友人の話をもとに お話ししていきたいと思います。

 事故から2日後には父と母、妹がエドモントンに到着しました。エドモントンに住んでいる友人が、家族のホテルの予約や病院までの送迎、案内を行ってくれました。ホテルは、病院に併設したホテルがあって 家族はそこで寝泊まりしていました。といっても カナダの病院には不思議なルールがあり、例外を除いて病室には24時間 家族もしくは友人が滞在しないといけない事になっていたので、家族はかわりばんこで わたしの病室で眠っていたそうです。医療従事者にとっては 何ともありがたいルールです。

 ドクターヘリにて到着後、精密検査を行い 前頭葉に出血があることがわかりました。到着したのが夜間で 明け方に緊急手術の予定となり 手術出棟前に もう1度 検査を行ったところ出血が徐々に自然吸収されていることがわかり、予定していた手術は中止になりました。脳の出血以外に、身体右側の骨がいくつか折れていて 右腕は複雑骨折していたので 家族が到着後に外側からピンで固定する手術を行いました。骨太で骨折したことがないというのが自慢だったのに、大型トラックにぶつかってしまえば 骨太も何も関係なく5本以上の骨が骨折していました。

 1ヶ月間完全に昏睡していたわけではなく、家族が到着後しばらくすると目を開けて話すこともあったそうです。ただ、その時の記憶は わたしには全くなく、家族が言うには 現状を全く認識できておらず、話す内容や話し方は全く わたしではない私だったそうです。目が覚めた時のことは今でも よく覚えています。イエローナイフから友人がお見舞いのためにエドモントンを訪問してくれていて、家族と友人が話している時に目が覚めました。ただ、すぐに現状を受け止めることはできず 前頭葉の損傷もあったので、記憶は2010年あたりで止まっていて なぜ自分がカナダにいるのかを思い出すことはできませんでした。

 

 数日が経つと 少しずつ少しずつ記憶が戻ってきて、事故にあった現状を受け止め始めました。ただ、ずっと話せていた英語は1週間以上思い出すことはできず、妹が英語を話せるので妹に通訳してもらいながら医師や看護師とコミュニケーションを取っていました。妹は ちょうど転職の合間でカナダに来てくれていましたが、新しい仕事が始まるタイミングで日本に帰り、日本から妹と交代で弟が有給を取って来てくれました。その時に 弟がクロスワードクイズの本を持ってきてくれて、昔からクロスワードを解くのが大好きだった わたしは喜んだのですが、問題をいざ解こうとしてみると 文字は読めても問題を理解することはできず その本の中にあるクイズを1問も解くことができませんでした。あの時のショックは忘れません。

 ただ、意識が戻ってからの回復は早く。少しずつ長期的な記憶も短期的な記憶も回復していき、英語も話せるように戻りました。もちろん最初は歩くこともできず、車椅子に10分乗っているだけでも息が上がって ちゃんと姿勢を維持することもできませんでした。身体のリハビリも毎日行って、積極的に病院内を歩いて 身体もほぼ日常生活が送れるレベルに戻りました。

 残ってしまった障害は、事故で右側の顔面を強く打った際に、右目の滑車神経を損傷してしまい 後天性眼球運動障害によって複視になってしまったことでした。医師によると数ヶ月以内であれば自然に戻ることも稀にあるが、戻らなかった場合は 複視のまま生きていくか、眼科を受診して手術適応であれば手術にて対応するかのどちらかとのことでした。とりあえずは、自然に治る可能性を信じて 半年は経過をみてみるべきだとのこと。

 わたしの病態も落ち着いたので、事故から1ヶ月半ほどで再びイエローナイフのStanton Territorial Hospitalにドクターヘリにて戻りました。この時に、家族も仕事があるため日本に戻りました。わざわざ、遠いカナダまで来てくれて 観光をするでもなく、毎日看病をしてくれた家族には頭が上がりません。

 アルバーター大学病院の病室と病院の食事の写真が残っていたので貼っておきます。最初はICUに入院していたのですが、意識が戻って1週間ほどで一般病棟へと移ることができました。看護師時代には、ICUで働いていたこともあったので なんだか感慨深かったです。ICUから退院する前日に医師達が会いに来てくれて、わたしの脳の回復は奇跡だったと話してくれました。本当にたくさんの奇跡が重なって今があるんだなと今でも 感謝しています。

 意識がない間は、口から食べることができず 鼻から胃までチューブを通す経管栄養と点滴にて栄養を補っていました。その時に、日本人の小柄な体型では受け止めきれないカロリーが注入されていたようで 目が覚めた時には5キロ近く太っていました。病院で出てくる食事はとても質素で、意識が戻って口から食べられるようになると 今度は体重がどんどん減っていきました。よく病院内にあるカフェテリアで間食したり、友人が外からテイクアウトを持ってきてくれていました。

 これがアルバーター大学病院の朝食と昼食。

 そして、イエローナイフ Stanton Territorial Hospital での朝食と昼食。贅沢なことは言えませんが、イエローナイフの病院の食事の方が美味しかったです。

 

 Stanton Territorial Hospitalでは、友達が入院に付き添ってくれました。イエローナイフの病院では、特に大きな治療や検査はせずに 療養とリハビリを中心に2週間ほど入院して退院となりました。

まとめ

 日本でも大変だろう病院生活、言語も文化も違う地 カナダでの入院生活は大変だったかと聞かれれば、意外とそんな事はなかったです。もちろん 医療用語や難しい単語が並んだ英語でのコミュニケーションは難しかったですが、みんな優しく何度も説明してくれたり、友人が通訳(といっても日本語は話せないので、難しい医療英語を わたしの分かるだろう簡単な英語に置き換えて説明。)してくれたりしたので何とかなりました。あとは、自分が回復して生きていくのに必死で細かいことは気にならず、入院生活が大変だと嘆く暇はありませんでした。

 しつこい程に言いますが、保険って本当に大切です。ドクターヘリを往復で利用するのにも、全額負担だったら数百万かかっていた可能性があるそうです。カナダの健康保険に加入していたので、その他の 手術費用や治療費、入院経費も含めて全額無料でした。家族がカナダに来てくれるための交通費と滞在費がかかったのみで、家族の滞在費用も1人分は補償してくれました。

 あとは、家族の連絡先をわかりやすくまとめておいて、同居している人や親しい友人に何かあった時に連絡してほしいと共有しておくことも大切だと思いました。今回は、友人が日本人を探して わたしの日本語の携帯から家族を探し出して連絡してくれましたが、わかりやすく まとめておけば その友人の手間も省けたかもしれません。

 長くなってしまったので、退院後とその後の経過については 別の記事でお話していきたいと思います。